2014/3/18

非常に個人的な話だけど、リアリティとライブ感が信条の「日記」としては避けられないことだから書く。

3月17日未明、祖父が亡くなった。

今年のはじめに体調を崩したと聞いたのがほんの3週間前。それでも4月末に予定されている従兄弟の結婚式では会えるだろうと楽観的に構えていたら、いよいよ悪いらしいと知らされたのが先週の土曜日で、その2日後の朝に今回の訃報である。しかも当日にお通夜で次の日がお葬式だという。早すぎる展開に理性と感情がついていく間もなく、あわてて仕事の休みをもらって東京から愛媛に行ってきた。

父方の祖父は生後半年で亡くなっているので、私にとって「じいちゃん」といえば「四国のじいちゃん」のことであった。じいちゃんは、親戚一同の中でも私の道具趣味に唯一ノリノリで付き合ってくれる人だった。毎年夏に訪ねて、最近手に入れた文房具やガジェットを自慢するとなんでもおもしろがって聞いてくれて、「文明はいつもマリちゃんからくるのぅ」と感心してくれたもんだ。「文明」て。

じいちゃんが好きなものはたいていわかった。だって、私が好きなものと同じだったから。カメラ、腕時計、ペン、手帳、刃物、手ぬぐい、そしてなぜか、懐中電灯。

お葬式の夜、叔父さんと話していたら「そういえばわたすものがある」と出てきたのがこの懐中電灯。1月に買い物に出かけた時に、「マリちゃんが今度きたときにあげる」とじいちゃんが購入したものだとか。「単4電池を使うものの方が小さいけど、やはりこの手のものは単3でなければいけない」と言っていたらしい。まったくもって同感だ。形見が懐中電灯だなんてちょっと変かもしれないが、これはこれで私とじいちゃんの間にだけ通じる合言葉みたいなもんで、離れて暮らしていてもそんな風に気にかけていてくれることがうれしかったんだ。

お葬式は急な日程だったのにも関わらず、ものすごくたくさんの人が来てくれていて、何よりも人が好きだったじいちゃんらしい、いい式だったと思う。

こうして色んなことが終わって家に帰ってきてみると、なんだか全てに実感がなくて夢だったんじゃないかという気もしてくるし、変な感じだ。きっとこれから先なにかがあるごとに「ああじいちゃんはもういないんだな」と気づいてじわじわ効いてくるんだろう。

身内を亡くすのははじめてじゃないが、その度に思うのは人は必ず死ぬっていうこと。死は別れだということ。別れが悲しいのは好きだからだということ。私はどちらかというと人間関係には慎重な方だけど、やっぱり好きな人には好きって普段から言っておかないといけないなぁと改めて思ったのでした。

というわけで、ちょっと個人的な話を書かせてもらいましたが、また次回の更新から通常運転に戻りますので、皆さんも普段通り接して下さい。よろしくお願いいたします。