2015/4/5

幼い頃、父の仕事の都合でイギリスに暮らしていたこともあり、いわゆる西洋絵画の名品を目にする機会には恵まれていた方だと思う。

とはいえ、私はどちらかというと想像力に乏しいドライな子供だったので、いわゆる「名画」の類いは「すごいな」「じょうずだな」「きれいだな」と思いこそすれ、どこか自分とは縁遠いもののように感じていた。

そんな中にあって、マグリットは初めから違っていた。

ダヴィンチやラファエロやボッティチェリやルノワールやフェルメールのような絵を描きたいとは思わなかったけど、マグリットを初めて目にした時はこんな絵を描きたい!と子供心に思ったのを覚えている。

画集も買ってもらったのか自分で買ったのかは忘れたが、小学生ぐらいのときから持っていたし、気に入った絵はカラーコピーして部屋の壁に貼り出して眺めていた。

そんな思い出もあって、国立新美術館で開催中の「マグリット展」にはぜひ行かねば!と思っており、ようやく機会を得て足を運ぶことができたのが昨日。なぜマグリットにそれほど惹かれるのか、子供の頃にはわからなかったことが今になって理解できたような気がする。

マグリットはよくシュルレアリスム運動の文脈で語られるけど、個人的には少し違うように思う。シュルレアリスム運動とは、ざっくり言ってしまうと主観や論理性の否定であり、無意識や偶然性の重視であった。

しかし、マグリットの絵はどこまでも論理的で計画的だ。そしてたぶん、私が勝手に親近感を覚えているのもそうした部分に違いない。

私は絵を描くのは好きだったけど、子供ながらに自分に才能がないことはわかっていた。上述したように、画家になるには圧倒的に想像力が足りないとどこかで自覚していたのだ。それがマグリットを目にしたことで、「イメージや想像力によらずとも、ロジックで描くこともできる」という可能性を感じたんじゃないかと思う。

もちろん子供だから言語化できるほどの理解ではなかったが、おかげで勝手に励まされた気分になって現在までペンをおかずにこられたような気がする。

そんなわけで、マグリットは私にとって特別な画家なのだ。絵をみにいったはずなのに、出てきた時には字ばかりのメモがいっぱいできあがっていた。そういう楽しみ方も、あっていいんじゃないかと思う。

会期は6月29日まで。「現実の感覚」(でっかい岩が空に浮いてる絵)が見たい人は、5月13日以降の展示らしいのでその後に行こう。