2017/05/28 シュレディンガーの女子会

先日、とあるニュースをきっかけにネットの一部で「意見交換会=合コンの上品な言い方」というネタが盛り上がった。これに関連して、「私が参加すると合コンが意見交換会になる」とつぶやいたところ、複数の知人から「なんかわかる」と言われひっそりと傷ついたわけだが、実はこれに類する問題を私は以前から抱えている。それが、「女子会」だ。

誤解のないように言っておくが、私に女子会というものを茶化す気持ちは一切ない。むしろ、純然たる憧れを抱いているのだ。その昔、「グータンヌーボ」というテレビ番組があり、優香や江角マキコを中心に今をときめく女性たちが夜な夜な飲食店に集まり、恋愛トークを繰り広げるのを見て、私もいつかアレをやってみたい…と胸を熱くしていたのだ。

しかしもともと親しい友人は男子が多かったり、あるいは女子っぽい女子が少なかったりで、なかなか機会に恵まれない。それでも、数は少ないがチャンスはあり、その場合は張り切って出かけてゆくのだが、ここで大きな問題が立ちはだかる。それは、「私が参加することによって、女子会が女子会でなくなってしまう」という問題だ。

箱を開ける前まで、たしかに「生きている女子会」と「死んでいる女子会」は同時に存在していたはずだ。しかし私という観測者が参加することによって、女子会の状態は「死んでいる女子会」に確定してしまうのだ。

うきうきと恋愛トークを繰り広げるはずが、私のせいでいつのまにか「これから死ぬまでに野菜を3種類しか食べられないとしたら何を選ぶか」だとか「ドトールのミラノサンドのパンは絶対昔の方が硬かった」とか、「我々が幼少期に見ていたのは『メイプルタウン物語』だったか『新メイプルタウン物語〜パームタウン編〜』だったか」で大激論を交わすことになるのだ。

この問題を称して、私は「シュレディンガーの女子会」と呼んでいる。

そうこうしているうちに、もはや女性だけで集まっても「女子会」というより「婦人会」と言った方がしっくりくる年齢になってしまった。私が開けなかった箱の中には、まだ「生きている女子会」は存在しているのだろうか。それを観測することはもう、きっとできないけれど。