もう4〜5年ほどになるだろうか。1日も欠かさずに日記を書き続けている。

日記にするなら、やはり紙がいい。以前はほぼ日手帳を使っていたが、1日1ページといえどA6では物足りなくなり、昨年はB6サイズのtorinco1(高橋書店)にした。今年は、どうせ日記にしか使わないのなら、手帳ではなくていっそ本当の日記帳にするか、と思って憧れの当用日記(博文館)を選んだ。

まだ使って数日だが、クラシカルなスタイルがとても良く、大変気に入っている。ペン字をやっていた影響か、私は日本語を書くときは縦書きが好きなのだ。方眼でも縦書きはできるが、やはり縦書きしかしないなら縦罫線が思考と視覚の邪魔にならず、スラスラと言葉が出てくる気がする。

紙の日記のいいところは、なんと言っても好きな筆記具を思う存分に使えるところである。

いくら私が文具好きと言っても、仕事はどうしてもデジタルが中心で、手で文字を書く機会はほとんどない。でもお気に入りの万年筆やインクは使いたい。そんな時こそ、日記の出番だ。1日の終わりに開いて、紙面に無心に文字を刻む。これほど癒される作業はない。

私が日記を書いている理由の8割はこのフィジカルな快感によるものだが、その他にも頭の中をスッキリさせる効果もある。昔から寝つきが悪いタイプで、特に布団に潜り込んでから思考がグルグルと巡りだすとまったく眠れなくなってしまう。日記を書き始めてからは、「今日のことは今日に置いていく」感覚で頭をからっぽにするのが以前より上手くなった、と思う。

日記に書く内容は、どうでもいいことほど価値がある。特別な日にあった特別なことは、写真があったり、周りの人も覚えていたりと、放っておいても案外思い出すことができる。でも、なんでもない日に起きたどうでもいいことは、書いておかなければ日常の彼方に消えてしまう。それでいて、後から思い出すとおもしろいのは、そういうどうでもいいことの方だったりする。

文具をはじめとする日用品も、古いものを探そうとすると、それが10年そこそこ昔のものでも全然見つからなかったりするが、それと同じで、あたりまえのものほど消えやすいのだ。特別なものは取っておこうと誰もが考えるが、あたりまえのものを取っておこうとは思わない。でも実は、あたりまえだからこそ、その時代の空気みたいなものを、最も多く含んでいるんじゃないだろうか。

去年は新型コロナの影響で、「あたりまえ」がゆらぐのを感じた。今まで普通だったことが普通じゃなくなり、普通じゃないことが次第に日常になり、いつの間にか新しい「あたりまえ」になっていく。暗いニュースが世界を覆い尽くす一方で、自分の日常は日常としてあるし、なんならちょっと面白いこととかも平気で起きる。なんとも不思議な1年だったし、こんな時に日記を書くという手段があってよかったな、と幾度も思った。

しかしよくよく考えてみれば、新型コロナがちょっとわかりやすかっただけで、そうでなくても「あたりまえ」は日々変化しているのだ。10年前の私と今の私が同じではないように、10年後の私はも今の私と同じではない。だからこそ、日記は読み返すとおもしろい。

そう、読み返すことも考えると、日記はやっぱり紙がいいのだ。デジタルデータにしてしまうと10年後には今と同じ状態で読めるかはわからない。でも、紙なら確実に読める。1000年前の紙だって読めるのだから、少なくとも人間ひとり、生きている間くらいは余裕だろう。

正直なところ、後で読み返してやろう、残してやろうと思って書いているのではない。先にも触れたが、フィジカルな快感が8割だ。でも、今の「空気」を缶詰にすることは今にしかできないと思えば、単なる快感にも大義名分が生じるというもの。今年もなかなか珍しい「あたりまえ」の年になりそうだから、また1日も欠かさずに日記を書こうと思う。