これは何故そうなのかという理由も、だからどうすればいいという提案もなく、ただそうなんだというだけの、オチも何もない話なんだけど。

昔からどうも、「裏方の側」というか、提供される側よりも提供する側の立場から考えてしまうクセがある。

わかりやすい例では、どこかお店に入ってご飯を食べているとき。客ではなく、店員としての立場で物事を考えてしまうのだ。注文のタイミングひとつとっても、「あっちのお客さんのオーダーが先かな」「あの料理はあったかいうちに運んだ方がいいから、戻ってくるときに声かければいいかな」などと、店員さんの思考をシミュレーションしてしまう。また、店員さんが怒られていたりすると、自分が怒られているかのようにシュンとしてしまう。

商品(文房具でも生活用品でもなんでも)を手に取ったとき、もちろん購入して使う側ではあるのだが、「これを企画した人の気持ち」とか「作る側の都合」みたいなものをすごく生々しく想像してしまう。「本当はもっとこうしたかったんだろうけど、価格を300円以内におさめたかったから、そこは泣く泣くあきらめたんだろうなぁ」とか。もちろん門外漢なので、その想像の正確さは知るよしもないのだが。

これ、わかる人にはすごくわかってもらえるだけど、わからない人には本当にわからないだろうな、とも思う。ただ、世の中には自分のようなタイプの人間が一定数いることは確かだ。

なぜこのような思考回路を持つに至ったかは定かではない。長女だったから自然と周りの都合に合わせることを学んだのか。演劇部に所属して舞台の裏方仕事に熱を上げていたからか。あるいは学生時代に接客業をアルバイトとして選んだからか。社会人になってからも営業やマーケなど、お客さんの求めるものを推し量る仕事が多かったからか。経営の裏側や工場見学的なドキュメンタリーが好きだからか。これらはみな原因かもしれないし、元々そういう性格だからそういう立ち回りがちなのだ、というだけのことかもしれない。

なぜ唐突にこんなことを考えているかというと、近頃は何かと「運営の不手際」が話題になることが多いからだ。日本という国の運営もそうだし、自治体とか、世界とか、会社とか、企業とか、個人とか、何かを「提供する側」への不満が常に渦巻いている。テレビも、ネットも、知人との世間話でも、ずっとだ。自分に対して言われているわけではない、と頭ではわかっていても、いつも誰かが誰かに対して怒っている、その言葉が耳から入ってくるたびに、「そんなに怒らんでもええやないか」「いろいろ事情があるかもしれんやんか」と思って、なんだかシュンとしてしまうのだ。

誤解がないように言っておくけれど、何も批判をすべきではない、ということではない。頑張っていれば結果は伴わなくていい、なんてことが許されないのはどんな仕事でも同じである。不都合なことがあれば、それを解決すべく、しかるべきところに声を届ける必要はある。間違いなくある。ただ、何しろ未曾有のこの事態。それを解決すべき立場にある人も、自分たちと同じ人間だ、ということは忘れないようにしたい。そして間違わない人間、傷つかない人間はいない。

結局のところ、自分は部外者に過ぎないわけだから、実際にどんな難しい事情があるのかはわからない。当人たちはなんとも思ってないかもしれない。人が怒っているのを横で聞いていてシュンとしてしまうのも、ただ単に難儀な性格だな、というだけの話である。ただこの性格で何かいいところがあるとすれば、何かが提供されるということは、それを提供してくれる人がいる、という事実を忘れずにいられる、ということだろう。

先のことを考えると不安しかない日々ではあるけれど、分断し対立するよりは、いろんな人が力を合わせた方が、まだいい方向に行くと思うんだけどな。現実にはなかなか、うまくいかないね。